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大貫妙子「都会」が描く、シティポップの光と影――摩天楼の孤独と1977年のリアリズム

大貫妙子「都会」が描く、シティポップの光と影――摩天楼の孤独と1977年のリアリズム

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シティポップという巨大な潮流の中で、一際冷徹で、かつ美しい光を放ち続ける楽曲があります。それが、1977年に発表された大貫妙子のアルバム『SUNSHOWER』に収録された名曲、「都会」です。
近年の世界的なシティポップ・ブームにおいて、竹内まりやの「Plastic Love」や松原みきの「真夜中のドア」がその「入口」であるならば、大貫妙子の「都会」はその「深淵」に位置する楽曲と言えるでしょう。
今回は、この「都会」という楽曲について、音楽的構造、歌詞の世界観、そして時代背景という多角的な視点から、なぜこの曲が40年以上の時を経てなお、私たちの心を捉えて離さないのか。その理由を紐解いていきましょう。

序章:狂騒の前の静けさ、あるいは予兆としての1977年

「シティポップ」という言葉から連想されるイメージは、多くの場合、煌びやかなネオン、リゾート地のプールサイド、あるいはバブル経済前夜の高揚感といったものでしょう。しかし、大貫妙子の「都会」がリリースされた1977年は、まだ日本が本格的な消費社会の狂乱(バブル)に突入する前の時代です。
1970年代後半の東京は、政治の季節(学生運動など)が終わりを告げ、若者たちの関心が「社会変革」から「個人的な生活の充実」や「都市生活の洗練」へとシフトし始めた時期でした。フォークソングが持っていた土着的な泥臭さが払拭され、より洋楽志向の強い「ニューミュージック」が台頭し始めた過渡期。その最前線にいたのが、シュガー・ベイブを経てソロ活動を開始していた大貫妙子でした。
この「都会」という楽曲は、後のシティポップが纏うことになる「能天気な明るさ」や「恋の駆け引き」とは一線を画しています。ここにあるのは、都市という巨大なシステムの中で生きる個人の「孤独」と、消費社会に対する鋭い「批評眼」です。

第1章:サウンドアーキテクチャの奇跡――坂本龍一とクロスオーバー・サウンド

「都会」を語る上で避けて通れないのが、その圧倒的に洗練されたサウンド・プロダクションです。編曲を手掛けたのは、当時まだ20代半ばだった坂本龍一。そして参加ミュージシャンには、ニューヨークのフュージョン・シーンを牽引していた精鋭たちが名を連ねています。

1. スティーヴィー・ワンダーへの回答としてのグルーヴ

「都会」のイントロが流れた瞬間、聴き手は一瞬にしてその世界に引きずり込まれます。うねるようなベースラインと、鋭く切り込むドラム。この楽曲の根底にあるのは、間違いなく同時代のブラック・ミュージック、特にスティーヴィー・ワンダーの「Superstition(迷信)」などに通じるファンク・グルーヴです。
しかし、単なる模倣ではありません。坂本龍一のアレンジは、ファンクの肉体的な熱量を持ちながらも、どこか冷ややかで知的な「抑制」が効いています。フェンダー・ローズ(エレクトリック・ピアノ)の浮遊感のある音色は、熱気を帯びたリズム隊とは対照的に、都市の冷たいビル風のような温度感を楽曲に与えています。この「熱」と「冷」の同居こそが、「都会」のサウンドの正体です。

2. クリス・パーカーとウィル・リーが生む「本物」の揺らぎ

アルバム『SUNSHOWER』のレコーディングには、当時のフュージョン界のトップ・ドラマーであるクリス・パーカーや、ベーシストのウィル・リーらが参加しています。彼らが作り出すリズムは、日本の歌謡曲的な「ジャストなリズム」とは異なり、独特の粘りとタイム感を持っています。
特に「都会」におけるドラムは、スネアの位置がわずかに後ろに溜まるような、独特のレイドバック感があります。これにより、アップテンポではないにもかかわらず、聴く者の身体を揺さぶる強烈なグルーヴが生まれています。日本のポップスが、洋楽のサウンド・クオリティに完全に追いつき、あるいは追い越そうとしていた瞬間のドキュメントがここにあります。

3. 土岐英史のサックス・ソロが象徴するもの

楽曲の中盤で披露される土岐英史によるアルトサックスのソロは、この曲のハイライトの一つです。都会の喧騒を切り裂くようなその音色は、叫びのようでありながら、どこか諦念を含んだ泣き声のようにも聞こえます。ジャズの文脈を持ちながら、ポップスの枠組みの中で機能するこのソロは、楽曲に「大人の夜」の気配を濃厚に漂わせています。

第2章:歌詞が暴く都市の虚構――「消費」される私と、満たされない朝

大貫妙子の歌詞は、しばしば「文学的」と評されますが、「都会」におけるその筆致は、まるで社会学者のフィールドノートのように冷徹です。

1. 煌びやかな消費の裏側

「新しい背広着て きこしめすお酒は どんな味がするの」
冒頭のこのフレーズは、高度経済成長を経て豊かになった日本のサラリーマン社会、あるいは着飾って夜の街に繰り出す人々へのアイロニカルな問いかけから始まります。「きこしめす」という少し古風で敬語的な表現をあえて使うことで、皮肉の度合いを強めています。
ここには、物質的な豊かさを手に入れたはずなのに、どこか満たされない空虚さが漂っています。新しい服、高いお酒、華やかなディスコ。それらは一時的な快楽を与えてくれますが、魂の渇きを癒やすことはありません。

2. 「その日暮らし」の華やかさと儚さ

「その日暮らしは 賑やかで 誰も彼も 踊り狂う」
シティポップの多くが「永遠の夏」や「終わらない恋」を歌う中で、大貫妙子は都市生活を「その日暮らし」と断じます。これは経済的な貧困を指すのではなく、精神的な刹那主義を指しています。明日への希望や長期的な展望を持たず、ただ「今」の快楽に身を任せて踊り狂う人々。その姿は、賑やかであればあるほど、逆説的に孤独を際立たせます。

3. 明け方の絶望

「あけがたの空の色は 金色にめまいがする」
サビで歌われるこの情景描写は、あまりにも鮮烈です。パーティーが終わり、店を出た瞬間に目にする朝焼け。本来であれば「希望」の象徴であるはずの朝陽が、ここでは「めまい」を起こさせる不快なもの、あるいは直視できないほど眩しすぎる現実として描かれています。
夜の魔法が解け、素面(シラフ)に戻る瞬間の気まずさと疲労感。都市生活者なら誰もが一度は経験したことのある、「祭りの後」の虚無感が見事に言語化されています。

第3章:大貫妙子のボーカリゼーション――「拒絶」としての歌声

「都会」を唯一無二の名曲にしている最大の要因は、大貫妙子自身のボーカル・スタイルにあります。

1. ノン・ヴィブラートの衝撃

当時の女性シンガーの多くが、感情を込めて歌い上げたり、あるいは可愛らしさを強調したりする中で、大貫妙子の歌唱は極めてストイックです。ノン・ヴィブラートに近い、真っ直ぐで透明度の高い声。彼女は、歌詞に込められた皮肉や悲しみを、あえて感情を排したような淡々としたトーンで歌います。
この「温度の低さ」が、逆に楽曲の持つ都会的な緊張感を高めています。もしこの曲を、ソウルフルに歌い上げるタイプのシンガーが歌っていたら、もっと泥臭い「ブルース」になっていたかもしれません。大貫妙子のクリスタルな声が、この曲を洗練された「シティポップ」の枠に留めつつ、同時に氷のような鋭利さを与えているのです。

2. 「私」と「都市」の距離感

彼女の歌声からは、対象(都市やそこに住む人々)と自分との間に、明確な距離を置いていることが感じられます。彼女は都市の渦中にいながら、どこかそれを俯瞰している「観察者」のようです。
「私はこの狂騒には染まらない」という、ある種の孤高の精神。それが聴き手に対して、「あなたはどう生きるのか?」と問いかけてくるような緊張感を生んでいます。この媚びない姿勢こそが、大貫妙子が「ター坊」という愛称で呼ばれながらも、単なるアイドル的な存在ではなく、尊敬を集めるアーティストであり続ける理由でしょう。

第4章:現代への接続――なぜ今、「都会」なのか

リリースから40年以上が経過した今、なぜ「都会」は国境を超えて再評価されているのでしょうか。

1. ヴェイパーウェイヴとフューチャーファンクの文脈

2010年代以降、ネット上で隆盛したヴェイパーウェイヴやフューチャーファンクといったムーブメントにおいて、日本のシティポップはサンプリングの宝庫として発見されました。しかし、「都会」が評価されたのは、単に「音が良いから」だけではありません。
ヴェイパーウェイヴがテーマとする「資本主義への皮肉」や「ノスタルジーと虚無感」といった美学と、大貫妙子が「都会」で描いた世界観が、奇跡的なまでにリンクしていたからです。失われた未来、煌びやかなのに空虚な消費社会。現代の若者たちが感じる閉塞感が、1977年の東京を描いたこの曲と共鳴したのです。

2. 普遍的な「都市の孤独」

テクノロジーが進化し、SNSで常に誰かと繋がっている現代において、私たちは逆説的に孤独を深めています。「都会」で歌われる、群衆の中の孤独や、物質的な豊かさの中の精神的な飢餓感は、現代においてより切実なリアリティを持っています。
流行りの服を着て、映える写真を撮り、「いいね」をもらう。それは「新しい背広着て」踊り狂っていた1977年の人々と本質的には変わりません。大貫妙子は40年前に既に、都市生活の本質的な虚しさを看破していたのです。

第5章:結論――『SUNSHOWER』が照らすもの

アルバムタイトルの『SUNSHOWER』は「天気雨」を意味します。晴れているのに雨が降っている。明るいのに、どこか寂しい。それはまさに、「都会」という曲が持つアンビバレントな魅力を象徴しています。
シティポップはしばしば、バブル時代の「徒花(あだばな)」として懐古されます。しかし、大貫妙子の「都会」は、そうしたノスタルジーの枠には収まりません。それは、都市というシステムの中で人間がどう生きるか、消費社会とどう対峙するかという、極めて実存的なテーマを扱った「都市のフォークロア(伝承)」です。
坂本龍一による緻密でファンキーなサウンド、時代を切り取る鋭利な歌詞、そして大貫妙子の透明で冷ややかな歌声。これらが三位一体となったこの楽曲は、単なる「シティポップの名曲」を超え、日本のポピュラー音楽史における「オーパーツ(場違いな工芸品)」のような、孤高の輝きを放っています。
私たちが都市に生き、消費し、そして時折訪れるどうしようもない孤独に襲われる限り、大貫妙子の「都会」は、何度でも再生され、そのたびに新しい響きを持って私たちの心に突き刺さることでしょう。
金色の朝焼けにめまいを覚えながら、それでも私たちは今日という日を、この「都会」で生きていくのです。

あとがき:次に聴くべき一枚

ここまで「都会」について深く掘り下げてきましたが、いかがでしたでしょうか。もしこの曲の世界観に惹かれたのであれば、以下のステップをおすすめします。
  1. アルバム『SUNSHOWER』を通して聴く: 「都会」以外の楽曲(特に「くすりをたくさん」や「Summer Connection」)も聴くことで、このアルバムが持つ多面的な魅力、そして坂本龍一のアレンジの凄みがより深く理解できます。
  2. 『MIGNONNE(ミニヨン)』へ進む: 次作にあたる『MIGNONNE』は、よりヨーロピアンで内省的な色合いが強くなりますが、大貫妙子の「孤独の美学」はさらに深まっています。「横顔」や「突然の贈りもの」は必聴です。
  3. 坂本龍一千のナイフ』を聴く: 「都会」のサウンドに惹かれたなら、同時期に制作された坂本龍一のソロデビュー作を聴いてみてください。サウンドの共通点と、そこからの飛躍を感じることができるはずです。
「都会」は、聴く年齢や環境によって、全く違った表情を見せる曲です。ぜひ、あなた自身の「都会」を見つけてみてください。
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